ボゴタで一番格式がありチャンピオンコースは、1917年設立の「Country Club de Bogota」
だと前回お伝えしてから、早や9か月が経ってしまった。
正に『光陰矢の如し』である。(本当に申し訳なく)
ボゴタにはカラカスから毎月1週間~10日ほど出張ベースでカバーしていた。
治安状況が毎日のように変化するので、出張前のルーティンを実行しないといけない。
これが結構ストレスだった。
当時、コカインの元締めのメデジンカルテル(首領はパブロ・エスコバル)と米国が戦争状態だったので、その煽りを受けての治安悪化も経験した。
なにせ、社有車が防弾車というのも、なかなか味わえない経験だ。
窓は、ガラスが何枚も貼り合わさっているので、景色が歪んでみえるので、外を眺めていると気分が悪くなるのには閉口した。
そんな中、ボゴタの日本人社会を揺るがす事件が勃発した。
M自動車の中堅幹部のM田さんが、警官による検問なのにも拘わらず、車を置いていけと言われ(自動車盗難)抵抗したら、銃弾を4発見舞われたのである。
被弾後、発見されて病院に搬送されが、約1ケ月後、手当の甲斐なく亡くなられた。
この時、たまたま駐在員の海外旅行保険をお引き受けしていたので、小生が現地での対応をさせて頂いた。
M自動車の人事部長がボゴタに来られ、ボゴタから日本に搬送する可能性について、打合せさせて頂いたのが昨日のようだ。
亡くなられた日は、小生はカラカスにいた。当時マフィアとコロンビア政府がやりあっていたこともあり、ボゴタに渡航するのは、極めて危険だった。
それでも現地の責任者として、お葬式に出席しないわけにはいかなかったし、M田さんとは良く食事したりする仲間だったこともあり、個人的にもお別れをしたかった。
この時、カラカス夕方で、時差があったが、緊急の出張許可を日本に打診した。
結局は、小生の判断に任せるとのことで、ただちに翌朝一番の飛行機をおさえてボゴタに向かった。
ボゴタの治安が悪かったこともあり、この日は、日帰り出張となった。
国際出張を日帰りしたのは、この時、限りである。
そんな過酷ともいえる環境の中でも、ゴルフ場は比較的安全だった。
警備が厳重で人が集まらないから、ターゲットになりにくかったと思う。(ただ、要人を狙ったテロなら危険なのかも知れない)
Country Club de Bogotaは、日本人駐在員でも、現地の代表者しか入会できない名門だった。
36Hあって、標高2,600Mにあり、メンテナンス(特にグリーン)は素晴らしかった。
高地で水はけも良いので、ベント芝の育成もよく、『ビロードの上でのパッティング』が楽しめた。
今まで色んな国のゴルフ場でラウンドしているが、このゴルフ場ほど
芽が詰まっているにも拘わらず、12-13フィートでるグリーンを未だ小生は知らない。
そんな駐在員生活も、後任の駐在員が決まり帰国が決まった。
ボゴタでの送別ゴルフは、日系企業の方々に、ここボゴタカントリーで開催していただいた。
どこでそれを聞いたのか分からないけど、当時コロンビアで提携関係にあったフェニックス社のサニン社長から秘書に連絡があり、この送別ゴルフが終わったら、迎えをやるので、その車で、フェニックス社の所有している牧場に来て欲しいとのことだった。
ゴルフが終わると、黒塗りのベンツと運転手が待機していてくれて、小一時間ほどのドライブで牧場に到着した。
こんな感じの建物に案内されると、サニン社長とご婦人に出迎えてもらった。
15時を過ぎていたので、取り敢えず、牧場を馬で回ろうということになり、
後任の駐在員とサニン社長との3名で、馬にまたがった。
小生は、友人がウエスタンの趣味があり、5-6鞍、乗馬の経験があったので、なんとかサニン社長の馬についていけたが、ふと気づくと後任の駐在員の姿が無い。
普通馬の習性で、先の馬に追従するものだが、後任の駐在員は全く乗馬の経験がなかったことから、馬が勝手に草を食みだしてしまったらしい。
来た道を戻り、後任を発見して、素敵な山荘に戻った。
部屋にはクラシックがかかり、奥様お手製のお料理と素晴らしいワインで、コロンビアの最後の夜を過ごさせて頂いた。
ワインに酔いしれながら、コロンビアの生活を思い出し、辛いことや悲しいこともあったけど、こんな経験は日本にいたら出来ないだろうなと、そして良く無事だったなと
ぼんやり考えていた。
駐在員の生活は、現地の生活を数パーセントしか体験できていないと思うが、それでも
現地でのご縁で関わった方々から与えて頂いたものは、今でも小生の宝ものである。
掲載日:2024年12月25日