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2023年7月31日月曜日 龍ヶ崎カントリー倶楽部において
加賀屋杯コンペが盛大に開催された。
 
夏日快晴笑顔満載、集人豪華和気藹々
というコンペだったと思います。
 
前田社長はじめスタッフの皆様有難うございました!
そして縁の皆様、猛暑の中お疲れ様でした。
 
さてその折、お約束した南米のゴルフ第一弾紀行をお届けする。
 
中南米は、かなり広く全ての国のゴルフ場に訪れたことはないが、今回の中南米シリーズでは、ベネズエラ、コロンビア、メキシコ、プエルトリコ、グランケイマンおよびブラジルについてレポートしてみたいと思う。
 
年代は1988年~1994年の6年間、頑張って思い出を絞りだしたい。
最近の出来事は、なかなか思い出せないのに、この紀行文を書き始めて、20年~40年前のことは、かなり詳細のことも思い出すことができるのが不思議だ。
 
ボケないうちに急ぎたいものである。
 
前述した国々(除くブラジル)は、北緯25度南緯10度くらいに位置する。
従って、赤道を挟んでの熱帯地帯にあるといっても過言ではない。
 
ベネズエラの首都カラカス(標高1,000m)、コロンビアの首都サンタフェ・デ・ボゴタ(標高2,640m)、メキシコの首都メキシコシティ(2,200m)は、熱帯地域にあっても、気候は、雨季乾季はあるものの、日本の初夏のような状態が一年続く。
 
「南米は、緯度で語らず、標高で語れ」
とは、よく言ったものである。
 
1991年7月末、ベネズエラ首席駐在員およびコロンビア首席駐在員として、ベネズエラ・カラカスに赴任した。小生の赴任前は、カラカス駐在員とボゴタ駐在員の2名が駐在していたが、ボゴタの治安悪化により、小生1人の駐在となり、ボゴタには常駐の駐在員を置かず、カラカスからボゴタ事務所をみるスタイルに変わった。日本人は小生のみで、カラカス事務所にはベネズエラ人の秘書、男性事務員そして運転手、ボゴタ事務所にはコロンビア人の秘書そして運転手の5名との生活が始まった。
 
これが、後々様々な事件と絡むことになるのだが、それは追々紹介していこう。
 
赴任して、カラカス駐在員から社宅や社有車の引継ぎを終え、一息ついていた頃に、
コロンビアの第二の都市メデジンの近くの水力発電所のサイトで、1991年8月27日東芝の社員2名の誘拐事件が勃発した。
 
当時東芝の体制も小生の会社と同じく、カラカスとボゴタに2つの事務所があって、カラカスの日本人駐在員がこの2つのオフィスをマネジメントしているスタイルだった。
 
誘拐された2名は、水力発電所のタービンの修理を行うために、山中のサイトに宿泊していたエンジニアの方々だった。寝込みを襲われたと報道されていた。
 
東芝のベネズエラ駐在員の方とは、同じ境遇(ベネズエラに居住して、コロンビア事務所も管轄し、かつ一人駐在員)のこともあり、早くからコロンビアの治安など情報交換などしていて、他社の駐在員よりは親しくしていたと思う。
 
この事件は、安全な日本から赴任したての小生にとって、かなりの衝撃となった。
 
同年12月16日2名はメデジンのインターコンチネンタルホテルの側で解放される。
111日後のことである。
 
この時、地元の新聞には、一人US$1百万(今の価値で、1.4億円)の合計約3億円が支払われたと報じられた。
当時のベネズエラおよびコロンビアの運転手の月給が、結構残業(休日の空港へ送り迎えや接待時の夜間の同行)をして、US$300(現在の価値で4万円強)だったので、
おひとり様US$1百万は、破格の値段だったと思う。
 
この時は、両国の邦人社会に激震が走った。
要は、日本人の顔をしていると、その額にUS$1百万の銀行振出の小切手が、ペッタと貼ってあることになる。
当時コロンビアでは、誘拐が産業化しており、FARCのみならず模倣犯もいることから、ターゲットにならないためにはどう行動するか、コロンビア大使館に出向している警察庁の武官の方と連絡をよく取りあっていたことを思い出した。
 
東芝社員誘拐事件では、誘拐したゲリラ組織FARCと東芝との間に入って仲介したとされるのが、英国のコントロール・リスクス社と言われている。
 
後日談だが、東芝の駐在員の方から、この事件を契機に同社の誘拐を含めたリスクマネジメントマニュアルが刷新されたと伺った。
 
なにはともあれ、お二人が無事解放されたことは、日系社会に安堵感が広がった。
 
この英国のコントロール・リスクス社を題材にして、コロンビアで誘拐された米国エンジニアを救出する映画「Proof of Life」が2000年に作られた。
コロンビアでの欧米人の誘拐が頻発していたので、欧米でも大きな社会問題になっていたかが窺える。
主演のラッセル・クロウがこのリスクス社の調査員(仲介役)としてFARCとの臨場感ある交渉、そしてコロンビアの街並み、自然、コカイン畑で働く貧しい人々、そこから自然のように発生していくゲリラ予備隊など、かなりリアリティで描写されていて、生々しい。
Proof of Life (2000) Official Trailer - Meg Ryan, Russell Crowe Thriller Movie HD - Bing video
https://www.bing.com/videos/search?q=proof+of+life&docid=603496003803360119&mid=944720A28274808B1416944720A28274808B1416&view=detail&FORM=VIRE
日本に帰国して、暫く経ちこの映画を見ることとなったが、そこで生活していただけに、背筋がゾッとしたことを覚えている。
 
そんな記憶に残る事件に迎えられて、新しい生活は始まった。
 
当時のベネズエラ大統領は、カルロス・アンドレス・ペレス。
その後、1992年にクーデターを起こしたチャベスに政権を奪取されることになる。
クーデター話は、次回にしよう。
この回では、クーデター前の、腐敗まみれだったが、米国の管理下に置かれた如き古き良きベネズエラを象徴するゴルフクラブを紹介したい。
 
ベネズエラは、スペイン系のファミリィ300家族がその経済を取り仕切っているといえる。
この300家族で、ほとんどの産業を支配している。
力のある家族は、大きなコングロマリットを組織し、日系企業も彼らとのコネクションがないと経済活動ができない。
 
その300家族の主要メンバーがランチやディナー、そしてゴルフやカードを楽しむのが
ここ「カラカスカントリークラブ」であった。設立は、1918年であるが、今の場所に移転したのは1936年とのことだ。(設立106年経過)
 
当時、日本人でここのメンバーだったのは、日本国ベネズエラ大使ともう一人影のフィクサーだった方の2名のみと記憶している。
ここでは、何度かラウンドしているが、当時提携していた保険会社のオリノコ社やメルカンティル社の社長や役員(当然ここのメンバー)に誘われてのことだった。
 
写真のように、カラカス市内のど真ん中に、住宅開発とともに作られたコースは、距離もなく、そう広くないゴルフ場だったが、昼食時ともなると、主要企業の名だたる経済人が集う場所、正に社交クラブだった。
 
コースは、バックティからで6600Y(Par 71)で、湘南のスリーハンドレッドクラブのアップダウンを少なくした感じだったかなと思う。
オフィス街からも10分程度でアクセスできるが、やはり白人社会なので、なかなか馴染めなかった。
 
日本人駐在員の多くは、Lagunita Country Club もしくは Junko Golf Clubのどちらかに入会して週末ゴルフを楽しんでいた。
 
胸ポケットに、命金のUS$50を忍ばせて。

 

 

掲載日:2023年8月7日